珈琲タイム

珈琲タイムに書いています。

バランス

千差万別、同じ人が一人としていない世の中で、

個人や企業や団体がひしめく中で、

 

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何故、書くのか。

何故、語ろうと思うのか。

***

神職の家に生まれ、口を割ってはならないことも教え込まれてきた。

全てに時がある、と聖書にあります。

 

語るのに時があり、黙るのに時がある。

人様の幸せを願うのは当然ですが、

 

神事を祈る、というプロセスは、

ただ神事。

 

バランスをとっているようでも、人間は当然ですが、自分発のバランスです。

 

語る時があり、黙る時がある。

何故、神職が置かれたのでしょうか。

 

田畑で汗水流して皆の口を養う尊さ、

その作業が少しでも楽になるようにと工業に携わり、

 

山奥でも離れ小島でも届けと商売が出向き、

良い隣人になれよ、と子供たちに学問が敷かれ・・・

 

祈る人はなんの為にいたのでしょうか。

人の側に立たず、

 

神の軸から離れないよう、神の所有とされた民を聖書ではレビ族、といいます。

土地の所有分割が成された時、

 

レビには分配がなく、神が取り分だと書かれています。

 

生きるためには、何かに属して人は生計をたてています。

組織に忠誠を持たない人は、組織の生産の邪魔になり、

 

ひいては人様の生活も脅かす結果となります。

どこにも属せず、神が取り分、

 

そうでなければ、時代はこのように続いてはこなかったと思います。

浮世離れをした話ですが、人間にはできないことを神はしているのです。

 

聖書は、レビの極みのかたちを十字架で教えて下さっております。

手を広げ、杭で打たれ、

 

足を組まれ、杭を打たれ、

この方を人と成られた神、と口で言え、信じる人をクリスチャン、と呼びます。

 

救われた者、という意味です。

イエス様のお名前は救い主、

 

キリストは神の霊が注がれた方、という意味。

聖霊によってこの世に来られた方は、ナルドの香油を十字架へかかる前に

 

頭からかけられます。

目に見える形で、完璧な神の流れを聖書は人がわかるようにと記されています。

 

 

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